京に坂本龍馬を訪ねてB

近江屋〜角倉了以別邸

高瀬川沿いには藩邸もたくさんあり、
志士も多く集まっていた。
新撰組の活躍の場でもあります。
高瀬川は豪商角倉了以がつくりました。
幕末の大事件の現場が集中しています。

近江屋→土佐藩邸→酢屋→池田屋→長州藩屋敷→角倉了以別邸

→今回のルートマップ←



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川原町四条
『中岡慎太郎寓居跡』の碑
横には観光マップもあります
川原町通を渡って少し北へ
『坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地』
の碑。近江屋跡。
両名はここで暗殺されました。
古高俊太郎邸跡
勤皇の志士と交流が深く倒幕の拠点
元治元年、新撰組に捕縛され、
過酷な拷問を受け、自白。
池田屋事件へと繋がる。
横にあった道標。
やわらかい文字でいい雰囲気♪
「みぎハふねのり場
 ひだりハ京ミち」
『本間精一郎遭難之地』の碑
本間精一郎は勤皇の志士。
池田屋騒動後、薩摩の田中新兵衛、
土佐の岡田以蔵らに暗殺される。
高瀬川沿い、『土佐藩邸跡』の碑
土佐藩は、薩摩、長州と並び幕末
政局の雄藩。武市瑞山、坂本龍馬、
中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士を
輩出。
土佐稲荷
藩邸に鎮守社として祀られたもので、
参詣する町人のために藩邸内の
通り抜けが許されていました。
『彦根藩邸跡』の碑
13代彦根藩主井伊直弼は、勅許を
待たず日米修好通商条約など
安政五カ国条約に調印した。
また、安政の大獄を起こし、
桜田門外の変で暗殺された。
酢屋。坂本龍馬寓居跡。当時は材木商。現在は創作工芸の店。
坂本龍馬の海援隊の京都における拠点でもあります。
高瀬川三條小橋、
『佐久間象山先生遭難之碑
 大村益次郎卿遭難之碑
       北へ約壱丁』の碑
北へ少し行くと、高瀬川を挟んで
『大村益次郎卿遭難碑』と
『象山先生遭難碑』
大村益次郎(村田蔵六)は、緒方洪庵
等に医・蘭学を学んだ。後、第2次
長州征伐・戊辰戦争において卓越
した指揮を行った。
佐久間象山は、兵学蘭学を学び、
江戸で勝海舟・吉田松陰等に砲学を
教えた。
『維新 史跡 池田屋騒動之址』の碑
(以前はパチンコ屋、今ははなの舞)

古高俊太郎の自白で、新撰組が
旅籠池田屋で潜伏していた(クーデ
ターを起こそうとしていた)長州藩・
土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃し
た事件である。この事件で新撰組は
一躍有名になった。
『武市瑞山先生寓居跡』の碑
通称武市半平太(はんべいた)
坂本龍馬と同じ土佐藩。
尊王攘夷を志し,土佐勤王党を結成。

右奥に『吉村寅太郎寓居跡』の碑
土佐藩の四天王の一人。他の四天王
は中岡慎太郎、坂本龍馬、武市瑞山
土佐勤王党に参加。
坂本竜馬らと共に脱藩した。
天誅組を組織した。
『加賀藩邸跡』の碑
加賀百二万七千石
12:15
京都ホテルオークラにある
『長州屋敷址』の碑
御池通りから柱の陰になっています
オークラの西面にある桂小五郎像
桂小五郎(木戸孝允)
長州藩、尊皇攘夷派
池田屋騒動では運良く遭難を回避
坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋で、
西郷隆盛と薩長同盟を締結
『桂小五郎幾松寓居跡』
北面「長州藩控屋敷趾」
桂小五郎と妻 松子となった
花街三本木の芸妓 幾松が
暮らした屋敷跡
今は料亭
『兵部大輔従三位大村益次郎公遺址』
大村益次郎(村田蔵六)
長州藩の医師、西洋学者、兵学者。
緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ。
『史蹟高瀬川一之船入』
この辺りから南が長州藩屋敷跡
12:40
『角倉了以別邸跡』の碑
北面「高瀬川源流庭苑」
現在はがんこの高瀬川二条苑
角倉 了以(すみのくら りょうい)
貿易商、豪商。運河高瀬川を造った。
高瀬舟による舟運も行う。
大堰川(保津川)や富士川の開削も
行った。

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